ファツィオリ日記

渋谷 ホールでググニンのチャイコンの内覧会コンサート 5月11・12日

昨秋オープンした渋谷ホールの人気が非常に高まっています。理由はわかりやすい・・・非常に便利だけでなく、使用料金はリーズナブルだし、何にも増して、新々ファツィオリF212が素晴らしいとの声が!当ホールで5月11・12日に特別な演奏会が開催されます。

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シドニー国際コンクールで優勝したAndrei Gugnin(アンドレイ・ググニン)は今年6月に開催される第16回チャイコフスキー国際音楽コンクールの為のプログラムを弾きます。

国際的なロシアピアニストをサロンで聴くのは、非常に珍しいチャンスですので、お早めにお問い合わせください。

詳細・チケットなどはMCS Young Artistsをクリックして下さい。

再発!ドイツのビジネス誌brandeinsより ≪ピアノの闘い≫  和訳文

独ビジネス誌"brandeins"による「ピアノの闘い」の記事が話題になり、
お問合せを沢山頂きました。
再度掲載いたしますので、ぜひご覧ください。


brandeins誌(ブランドアインズ、本社ハンブルグ)は経営者をターゲットにしたビジネス誌です。毎月新しいテーマーを取り上げ、掘り下げた分析を行います。

2017年10月のテーマーは「戦略」でしたが、その中にファツィオリの戦略に焦点をあてたストーリーを書いてます。 これまでにも色々な経済誌がファツィオリを取り上げた記事を書いてきましたが、この記事は余り語られることのないビジネスの舞台裏を明晰に分析しており、ピアノ愛好家の人にはもちろん、一般の方にとっても興味深い記事だと思いました。出版社の許諾を得て弊社においてこの記事を和訳し、翻訳文を掲載いたします。

オリジナル」ドイツ語の記事はここをクリックして下さい。
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2017年/10月号 - 戦略のフォーカス  Schwerpunkt Strategie


Paolo Fazioliパオロ・ファツィオリ


Flügelkampf ピアノの闘い



2011年3月31日、ニューヨーク市内、リンカーン・センター・プラザのジュリアード音楽院の門を出た時、パオロ・ファツィオリは嬉しさのあまり小躍りしたかったに違いない。その時彼は、もし一般公開されたら業界を驚愕させ、ライバルであるスタインウェイ&サンズ社を怒らせるであろう、素晴らしい取引を締結したばかりだった。


俳優や音楽家を輩出する名門ジュリアードには275台のピアノがあり、スタインウェイピアノの所有台数としては世界最大である。同校の主任ピアノ技術者シュテファン・カーヴァー(Stephen Carver)は、「今回の取引は、大きな転機を意味するでしょう」と述べている。カーヴァーは、ジュリアードが所有するピアノを選別し、モデルや購入時期を決定する責任を担っている。同校は約90年もの長い間にわたり、ほぼスタインウェイのみを購入してきた。しかし2011年3月31日、初めてファツィオリ工場からピアノを1台購入したのである。 「学生らは多様性を求めていたのです。私たちはそれに応えました」とカーヴァーは振り返る。


これはパオロ・ファツィオリにとって感慨深い瞬間だった。 「ジュリアードの人達がどれ程の勇気と覚悟でこの決定をしたのか、分かっていましたから。」と、イタリアのフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州(Friuli Venezia Giulia)のサチーレ(Sacile)本社で、現在73歳の同氏は語った。


1970年代後半、パオロ・ファツィオリはピアノを造り始めた。ピアニストであったパオロは、世界の偉大なコンサートホールを征服するという夢を持っていた。演奏家としては諦めざるを得なかったその夢を、彼は楽器に託した。しかし、それは誰の目から見ても狂気の沙汰だった。当時、世界の名だたるピアニスト達は、ほぼ誰もがスタインウェイのモデルD-274を演奏していたからだ。


しかしパオロは、当時ピアノの音質が持つ可能性は追及されつくされていないと確信していた。細部にわたり研究を重ねていけば、その可能性を形にし、夢を叶えられると信じていた。それから今日に至るまでに、彼はこの考えのナイーブさを痛感することになる。自分の縄張りをなにがなんでも守ろうとする、強大なライバルとの闘いを何十年も余儀なくされることになろうとは思ってもいなかったからだ。


パオロは2002年11月頃、ハンブルグ音楽演劇大学に2台のモデルF228ピアノを販売した。彼にとって、15万ユーロ余りの売上も喜びの一つだったが、それ以上に、若い音大生たちがファツィオリピアノと接し、時とともに信頼関係が出来るであろという期待に満ちていた。彼は追加注文を心待ちにしていた。しかしその裏ではスタインウェイ社が既に行動に出ていた。同社はニューヨークとハンブルグに本社を持つ。 2002年の夏、ゲリット・グラナー(Gerrit Glaner)はハンブルグ本社のアーティスト・コンサート部門責任者のポジションに就いた。彼の任務は、北米以外の地域を拠点とする、全ての一流ピアニストおよび音楽学校に、スタインウェイのグランドピアノを確実に使用させることであった。内部関係者によると、この取引の直後、スタインウェイ社員が大学の責任者に電話を掛け、不満を伝えたということである。同校がその後再びサチーレにピアノを注文することは無かった。記者はグラナーにこの件を問い合わせたが、コメントは得られなかった。


パオロ・ファツィオリはスタインウェイの話になると、口を閉ざす。火に油を注ぐようなことはしたくないという思いからだ。しかし、15年も前に起きたこの事件に思いを馳せる時は、彼も恨みを押さえることができない。「敬意の欠片もない行動だった。当時私はとても傷ついた」と心中を明かす。

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支配者

スタインウェイの特別顧客に対する囲い込みは、長い歴史を持つ伝統である。 150年前に存在した著名なピアノメーカーの殆どは、ピアニストに使用してもらえるよう楽器を贈呈していた。スタインウェイ社はロシアのピアニスト、アントン・ルービンシュタイン(Anton Rubinstein)にお金を払い、アメリカの215回のコンサートで、スタインウェイピアノを演奏させた。


今日、スタインウェイ社のウェブサイトには、スタインウェイアーティストと呼ばれる1800人以上のアーティストのリストが公表されている。これに属している人は、世界中どこにいようと、好みのピアノと調律師のサービスを要求できる。


しかし、他社のピアノを弾いたり、間違ったことを公の場で話してしまうと、痛い目に合う。アメリカ人ピアニストのギャリック・オールソン(Garrick Ohlsson) のように。彼はスタインウェイアーティストであったが、1972年のニューヨーク・タイムズ紙(The New York Times)とのインタビューにて、オーストリア製のベーゼンドルファー(Bösendorfer)ピアノを所有していることを話し、これを「ピアノのロールスロイス」と呼んだ。同じ日に、彼はジュリアード・スクール所有のアリス・タリー・ホール(Alice Tully Hall)で演奏することになっていた。スタインウェイで演奏するはずだったが、コンサート開始の数時間前には、スタインウェイ社の社員がステージからピアノを運び出していた。その後約1年間、オールソンにスタインウェイピアノが提供されることはなかった。


スタインウェイにはもう一つのリストがある。160以上に及ぶスタインウェイスクールと呼ばれる音楽学校のリストであり、所有するピアノの少なくとも90%がスタインウェイである音楽院や音楽大学が名前を連ねる。


上記の戦略により、スタインウェイのブランドは、ファツィオリピアノが生まれる遥か前からヴラジミール・ホロヴィッツやセルゲイ・ラフマニノフなど、 伝説のピアニストや名門教育機関と密接な関係を構築した。その昔アントン・ルービンシュタインに支払ったようなお金は、スタインウェイ社はもう随分前に支払わなくなっている。同社のブランド力は、多くのアーティストや学校にとって、もはや十分なインセンティブとなったのだ。


この状況を見て、コンサートのステージは単一文化(Monoculture モノカルチャー)になっていると懸念する専門家もいる。例えば、フロリダ州立音楽大学でピアノ技術を教えているアン・ガレー(Anne Garee)は、学生が最初からスタインウェイに専念しないことは重要だと説く。サラ・ファウストも同じように考える一人である。 30年以上も前、彼女はピアニストとして完璧な楽器を探し求めていたが、その後、夫とファウスト・ハリソン・ピアノ社を設立し、19世紀のスタインウェイピアノの修復に特化した。ファウストは、新しい楽器は多くの場合古い楽器ほどは良く無いと考えている。数年前、彼女は品揃えを拡大し、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ヤマハ、ファツィオリなどのピアノを販売するようになった。会社はニューヨーク市の北50kmに位置するホワイトプレーンズに本拠を置く。 「それぞれのピアノがそれなりに素晴らしい。この古いスタインウェイは他のどのピアノよりも柔らかい響きですが、こちらのファツィオリは信じられ無いほど音の伸びが長い」と彼女は言う。

客観的に最高と評価できるピアノは無いであろうとファウストは言う。 「ピアニストは皆、自身を最もよく表現できるピアノを見つけなければなりません。コンサートステージのモノカルチャーは、優れた楽器ではなく、優れたマーケティングがもたらしたもの。スタインウェイは神話の上に成り立っています」。

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ドライブ

新参者はどう立ち向かえば良いのだろうか。ファツィオリは長い間この問題を考えもしなかった。彼は競合を見てすらいなかった。単に科学的好奇心と音楽への愛から、可能な限り完璧なピアノを造りたかっただけである。


パオロ・ファツィオリはローマの起業家の家に生まれた。家具製造会社を経営していた彼の父親は権威的で、6人の息子が凡庸であることは許さず、何かを成し遂げたいというドライブを持つ人間に育てようとした。パオロは末っ子で、家族の中でただ一人、音楽に魅了された子供であった。幼年期にはピアノのレッスンを受け、両親に伴われなくとも一人でクラシックコンサートにも行くほどの音楽好きであった。父親が、息子ら全員が何か「地に足がついた」ものを学ぶよう厳しく求めたため、パオロは機械工学を学んだ。並行して音楽院にも通い、1971年にピアノの学位を取得した。


その後彼はピアノ教師として働き、コンサート演奏も行ったが、音楽院時代に経験したステージ上での苦い思いを味わうのは御免だと思っていた。彼はピアニストとしてのキャリアを断念し、兄の後を追い父親の事業に入った。パオロは100人の従業員を持つトリノ工場の製造責任者となり、それなりの成功を収めていた。しかし、オフィス家具事業は彼を満足させなかった。その間ずっと、音楽を恋しく想いつづけたのである。パオロはもともと物理学に深い興味を持っていた。工学士でもあり技術的理解もあるので、ピアノを造ろうと思い立った。


1979年、パオロは種々のピアノとその音色の分析を開始した。彼は経験豊富なピアノ製造職人を雇い、友人の木材エンジニアに相談し、物理学者で音楽家かつ音響学の権威であるピエトロ・リギーニ(Pietro Righini)教授に支援を求めた。 「それは正気の沙汰ではない」と教授は諭した。 「高級コンサートグランドピアノの市場は、百年もの間職人技を続けてきたドイツのメーカーによって支配されている。諦めなさい」と。


当時は、ヨーロッパのピアノメーカーにとって困難な時期だったと言える。スタインウェイ、シンメル、ベヒシュタインやブリュートナーなど、世界的に認められた伝統メーカーが集まるドイツですら、80年代初めには生産台数が10年間で5,000台減少し、年間25,000台で推移していた。その主な理由はヤマハであった。ヤマハは70年代からヨーロッパに進出していたが、彼らの安い楽器の品質を向上させていた。 80年代の初めには、高度に自動化された工場で年間10万台以上のピアノを生産し、市場に大量のピアノを送り込んでいた。


パオロはこれをものともしなかった。彼は父親の工場が立地する、木工技術に長い伝統を持つサチーレの町に移り住んだ。その工場の一角で、彼は仲間と一緒に最初のプロトタイプを造ったのである。彼のチームにはリギーニも加わっていた。リギーニはパオロの仕事に対する熱意を見るうちに考えを180度変え、「あなたは今やろうとしていることをなんとしてもやり遂げなければならない」と激励する同志になっていた。


そして、彼はやり遂げた。スタートアップに必要な資本金は自分で調達したが、幸いにも家族所有の家具会社の従業員、材料、道具などを使用することを許された。チームは数え切れないほど幾度もファツィオリピアノを組み立て、変更を加え、また組み立てた。ピアノ製造の伝統を単に真似するのではなく、すべての工程が科学的根拠で裏付けられなければならない」という精神を貫いたのだった。


サチーレから15キロ離れた県都ポルデノーネ市に、ザヌッシという家電メーカーの本社があり、その研究所では可能な限り静かな洗濯機を設計する方法が研究されていた。パオロ・ファツィオリはこの会社に共同研究を提案した。「振動や音を減らす方法が分かれば、必然的にそれらを増幅する方法も分かると思った」のが理由であった。


1981年、パオロはミラノで3種類のピアノのプロトタイプを発表した。その直後に彼のピアノは早くもコンサートで使われ始めた。言うまでもなく、これは彼のイタリア人ピアニストとの関係によるものだけではない。1984年には、大スターピアニストのアルド・チッコリーニ(Aldo Ciccolini)も、スカラ座での演奏にサチーレからピアノを持って来させた。 アルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel)やニキータ・マガロフ(Nikita Magaloff)などの外国のピアニストもこの時期にファツィオリピアノを使用し始めた。しかし、画期的なブレークスルーはなかなか起きなかった。特に、有名音楽学校に入り込むのはとても困難であった。シュトゥットガルトに本拠を置くファツィオリピアノのドイツの代理店ピアノ・フィッシャーの社長ディーター・フィッシャー(Dieter Fischer)は、「ハンブルグに限ったことではありません。ファツィオリを購入した施設の多くは、後にスタインウェイ社の社員からなぜかと批難口調で問いただされたとのことです。スタインウェイ社の社員は、時には選定中の購買者にファツイオリピアノの批判をして、影響を与えようともしました。」と述べている。「誰も強力なピアノメーカーとの関係を損ないたくないがため、圧力を受けていると感じた教授や校長も少なからずいます」。


さらに重要なことは、2003年より著名なピアニストが立て続けに真のファツィオリ信奉者になったことである。カナダのアンジェラ・ヒューイットは、スタインウェイからファツィオリに替えて以来、自分の演奏がよりカラフルになったと公の場で何度も述べている。エコノミスト誌は同年6月に「スタインウェイ、ブリュートナー、ベヒシュタインは同意しないかもしれないが、一部のアーティストはFazioliが現在世界で最高のピアノを造っていると信じている」と書いた。


売上高は目に見えて増加した。その数年前に、パオロ・ファツィオリは、木材を乾燥させるための空調設備を備えた新しい工場を建てたばかりだった。そこには試験のための研究室と魅力的な音響を持つコンサートホールも作った。2003年の終わりに、スタインウェイアーティストであるルイ・ロルティ(Louis Lortie)はニューヨークのカーネギー・ホールでFazioliを演奏したことがあった。カナダ人の彼は、楽器の自由な選択がピアニストにとって「必要不可欠」であることを常に強調していた。かつてのスタインウェイマネージャー、ピーター・グッドリッチ(Peter Goodrich)はニューヨーク・タイムズ紙の取材に対し「私はショックを受けた」と応じた。さらに「スタインウェイだけを演奏したいと思わないピアニストを、我々のリストに持ちたくない」と追い打ちをかけた。その後ロルティの名前はスタインウェイアーティストのリストから削除された。

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神話

パオロ・ファツィオリに彼の戦略について尋ねると、「品質において妥協をしないこと」と言う。しかし、それは本質の半分をも捉えていない。それだけでは、スタインウェイに対抗できる筈がない。実際、ファツィオリは、品質を高めるために、驚くほど贅沢に材料を使用する。例えば、グランドピアノの響板には赤モミのみを使用している。それはストラディバリが伝説のヴァイオリンを作った森の木と同じものである。「200本の樹木のうち1本しか我々のピアノに必要な自然の音響を持っていない」とパオロは当然の様に言う。


彼はまた、究極のものを造り出す尋常でない能力を持つ。彼ほど、ピアノの製作に時間を費やす人間は競合会社にもいない。1台のピアノの完成に3年をかける。1987年には世界最長のピアノとなるF308を世に出した。このピアノには通常の3つのペダルの代わりに4つのペダルを装着した。


ピアノの品質に妥協しないため、台数も制限している。パオロは「年間200台以上製造してはいけない。そうしないと品質は低下し、私は個々のピアノに目を届かせることはできない」と言う。


この姿勢は多くのピアニストに感銘を与えた。なぜなら対照的に、1990年代以降、ヨーロッパのメーカーは、アジアのメーカーに安価なブランドで対抗することに重きを置き、自らが持つ最良のピアノを向上させることに関心を向けて来なかったからだ。スタインウェイ社も同様に、1992年から日本でボストンピアノを製造し、2006年からは中国でエセックスピアノを製造している。ファツィオリは一方、頑なに彼の製品の路線を堅持している。
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結論

ファツィオリが2011年3月にスタインウェイの砦、ジュリアード音楽院に入り込んだ時に、スタインウェイ社の恐怖は増したことであろう。当初は様子見のようだったが、学校がファツィオリを一般公開されるコンサートホールに設置した時、スタインウェイ社はジュリアード音楽院をそのリストから削除した。技術責任者のカーヴァーは、「全く警告なしだった」と述べている。実際、カーヴァーはスタインウェイピアノのファンであるが、この反応には違和感を感じている様だ。「これは、ファツィオリピアノに、如何に皆が敬意を払うようになったかを物語るエピソードでしょう」。


ファツィオリ社はまた経済的にも良好な発展を遂げた。年間売上高(2016年:920万ユーロ)と利益(180万ユーロ)は年々伸びている。現在の社員数は50人。昨年の売上台数は初めて150台に上った。スタンダードのピアノは最高のもので15万ユーロ近く、世界で最も高額なピアノの一つである。


年間2500台を製造するスタインウェイ社と比較すると、ファツィオリ社はまだ小人である。ライバルを追い越すことはこの先も決してないだろうが、ファツィオリはスタインウェイ社の高級ピアノ顧客市場の独占に穴をあけたと言える。今年5月に開催された重要なテルアビブのアルトゥール・ルービンシュタイン国際ピアノマスターコンクールでは、30人の参加者のうち10人がファツィオリを選び、1位と2位をさらった。パオロ・ファツィオリに対して「この瞬間に満足していると感じましたか?」と問うと「いいえ、なぜ私が満足すべきでしょうか?私はスタインウェイを大いに尊敬しています」と返ってきた。しかし、彼はひと言、付け加えずにはいられなかった。「ピアニストに自分の楽器だけを弾くように頼むことは絶対にできません。アーティストには選択の自由が必要です」。

イタリアン・ジャズの真髄が聴ける!I Magnifici Tre の来日コンサート

(今回のコンサートではファツィオリの手配が出来ませんでしたが、今後の I Magnifici Tre の演奏会ではFazioliの音色も聴こえます。)

シチリアを代表する世界的ソリストが集結
驚異のテクニックで聴くイタリアン・ジャズの真髄を聴く、稀なコンサート!

巨匠エンニオ・モリコーネが「世界一偉大なギタリスト」と賞賛したフランチェスコ・ブッズーロ、サンレモ音楽祭の常連ハーモニカ奏者ジュゼッペ・ミリチ、ポップスからフリー・ジャズまで幅広く活動するクラリネット奏者ニコーラ・ジャンマリナーロ。シチリアを代表する名手によるトリオ"イ・マニフィチ・トレ"が、ヴォーカリストの五十嵐はるみ、ピアニストのぱくよんせ、フルート奏者の酒井麻生代と合流、豪華6人編成でのスペシャル・ライヴを行う。ジャズへの愛で深く結びつく面々によるハートウォーミングなステージに期待が募る。

I MAGNIFICI Tre
featuring FRANCESCO BUZZURRO,
NICOLA GIAMMARINARO, GIUSEPPE MILICI

イ・マニフィチ・トレ
featuring フランチェスコ・ブッズーロ、
ニコーラ・ジャンマリナーロ、ジュゼッペ・ミリチ

2019年9月20日(金) [1st] 開場17:30、開演18:30 [2nd] 開場20:20、開演21:00
ブルーノート東京 
東京都港区南青山6-3-16

詳細・ご予約はこちらをクリック下さい


イ・マニフィチ・トレのロフィール

・フランチェスコ・ブッズーロ[ギター]

シチリア生まれの49歳のこのギタリストが弾きだすとまるでビックバンドのようなサウンドを生み出す。彼は、ドラム、ベース、ピアノ等いかなるサイド面も必要としない。メロディ、伴奏、ベース、リズムの全てを一人で同時に演奏してしまう。当初、クラシックギタリストとしての訓練を受けた彼はその後ジャズをはじめラテン音楽、アフロアメリカン音楽等のいろいろなジャンルに幅を広げ、「音楽に国境なし」を身をもって証明している。もっとも著名なアルバムは"L'Esploratore"がある。

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・ニコーラ・ジャンマリナーロ[クラリネット]

トラーパニにあるA.Scontrinoという音楽学校のクラリネット課を優等で卒業の後、すぐに音楽活動をはじめ、Claudia LoCascio、Enzo Randisi、Gianni Cavallaro、Sal Genoveseなどの著名な国際的なアーティストと共演をする。彼は、PALERMOにある「Reinhadtジャズ・スタジオ・オーケストラ」、「ザ・シリコンジャズオーケストラ」や「ゼテマ・オーケストラ」などで数年演奏をし、ナタリーコールや、ジャンニ・パッソ、エンリコ・イントラなどのミュージシャンと共演をするまでに成長をした。彼はソリストとしても、「ダブル・フェイス」をミケーレ・パンタレーオ、ジュゼッペ・コスタやヴィチェンツォ・ランツォとレコーディングをし、批評家から高評価を得た。また、サン・フィリッポ賞などをはじめとする数々の賞ももらっている。さらに、イタリアや他国のさまざまなジャズフェスティバルに招聘され、アメリカの著名なジャズミュージシャンであるエディ・ダニエルズから素晴らしいと賞賛されている。また、彼はピアニストのサルバトーレ・ボナフェードとトリオを組み、演奏もしている。さらに、ナショナル・ネットワークのテレビ放送の演奏にも参加をしている。

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・ジュゼッペ・ミリチ[ハーモニカ]

パレルモ生まれのハーモニカプレイヤー。彼はハーモニカをWili Burgerに、ジャズ即興演奏をサキソフォンプレイヤーのLarry Nashに、ピアノをSalatore Nonafedeに習った。名だたるプレイヤーたちとの共演経験を積んだ後、1983年より作曲家として活動をはじめ、イタリアの数々のTV番組のための作曲をしている。1990年にはラジオのジャズ番組で演奏、またJames Newton率いるヨーロッパ最初のジャズオーケストラのメンバーにも選ばれている。彼の活躍の場は映画音楽、TV番組のための音楽だけでなく演奏活動もアメリカのBlue Noteをはじめオランダ、スイス、モロッコ、オーストラリア、イギリス、フランス、ドイツ、南アフリカ、スワジランド、アルゼンチンなどに広がっている。1998年にはクラシックの演奏も開始。彼の作曲した"NOVEMBER 64"はイタリアTVの有名番組のテーマ曲に選ばれ、また2003年に出したCD"NOVEMBER 64"葉世界的に有名なToots Thielemansに絶賛された。2010年には"Michael Jackson Jazz Tribute"を出している。ここ数年は映画のサウンドトラックに活動の場を広げ、2015年NewYorkで収録したCD"AMARSI UN PO"はKLM機内のMusic Selectionに選ばれている。
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レコード芸術誌1月号 ヴァディム・ホロデンコのインタビュー

レコード芸術誌のご厚意により、ヴァディム・ホロデンコのインタビュー記事を掲載する許諾を頂きました。
4ページにわたる中味の濃いインタビューの中で、ヴァディムがスクリャービン、ファツィオリ、日本への熱い思いを語っています。
来る6月11日(火)のコンサートには、滅多に聴くことのできないスクリャービンのソナタ第6番や人気のエチュードもプログラムに!
コンサートの詳細はこちらをご覧下さい。

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その深みと豊穣さで世界に衝撃出色の
「オール・スクリャービン・プログラム」

ヴァディム・ホロデンコ 【ピアノ】
Vadym Kholodenko - Piano


ききて・文=長井進之介
写真=青柳 聡


ヴァディム・ホロデンコは、2010年に第4回仙台国際音楽コンクール優勝、2011年にはシューベルト国際ピアノコンクール優勝を果たすと、2013年にはヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールでも優勝し、あわせて最優秀室内楽賞と最優秀新作賞を受賞するといった圧倒的勝利を収めたピアニスト。非常に高度な技術、詩情に溢れ、同時に説得力ある音楽表現は日本にも多くのファンを持つ。2019年には仙台国際コンクールの審査員にも抜擢されており、今年も来日公演を行ったホロデンコはハルモニア・ムンディから自身3枚目となるCDをリリースした。ラフマニノフやプロコフィエフなどロシアの作品を得意とする彼が今回届けてくれるのはオール・スクリャービン・プログラム。イタリアの銘器「ファツィオリ」の F308を用いて、初期の前奏曲、中期のピアノソナタ、そして後期の詩曲≪焔に向って≫と幅広くスクリャービンの音世界を堪能させてくれる内容となっている。

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スクリャービンに喚起された「新たな感情」とは

 「特にロシアものということにこだわっているわけではなく、様々なレパートリーを弾いていますが、特に最近ではあまり知られていないロシアものの作品を色々と弾いていきたいという気持ちが強まっているところです。実は数年前にCD録音をしようという計画があり、その時はシューマンとスクリャービンのプログラムの予定でした。結局その企画は頓挫し、実現には至らなかったのですが、その時スクリャービンの《24の前奏曲》 作品11や、そのほかの作品を弾いていて、それまでと違う感情が自分の中に湧き上がってきたのです。そしていつか必ずスクリャービンだけのプログラムによるCDを出したいと思っていました。」

 スクリャービンとシューマンという組み合わせは意外にも思えるが、両者とも音楽外の芸術や学問などから強い影響を受け、複雑な内面を音楽に非常に強く反映させた作曲家であるので、とても面白い内容になったであろう。頓挫してしまったことは個人的に非常に残念だが、その計画があったからこそ、今回素晴らしいオール・スクリャービン・プログラムのディスクが生まれたわけだ。ところで、スクリャービンを演奏してホロデンコの中に生まれた「新たな感情」というのは一体どのようなものだったのだろう?

 「言葉で説明するのは非常に難しいですね(笑)。そもそも、同じ音楽を毎日弾いていても人は感じ方が絶えず変わり、成長し続けるものですから、全く同じように作品を感じることはありませんよね。その感じ方が特に強く変わってきたということになるでしょうか。もう少し具体的なことをいえば、スクリャービンは非常にユニークな音楽の要素をもった人で、彼の音楽の中には爆発的なものや劇的なもの、予測できないものがありますよね。それが自分を虜にしてしまい、これまでと違ったやり方でそれを表現したいという気持ちが急に起こったのです」

複雑で予測不能なスクリャービンの音楽

 優れたピアニストでもあったスクリャービンの作品には技巧的な作品が多く、ピアニストにとっては挑戦し甲斐のあるものばかりだが、同時代のラフマニノフや少し後のプロコフィエフに比べれた少しマイナーともいえる存在だ。それはやはり「予測不可能」で複雑な面を孕んでいるからであろうか。
「スクリャービンの"予測不可能"な面は、私がこれまで多く取り組んできたプロコフィエフと比べると特に際立つ気がします。プロコフィエフは音楽のはじまりから発展、終わりまで、その一連が常に論理的ですよね。一方でスクリャービンはウェルナー・カルル・ハイゼンベルクの提唱した『不確定性原理』を思わせるようなもので、プロコフィエフの作品のような、"ここではこうしよう"というようなあらかじめの予定が明確に立たないのです。それがまた強い魅力を感じさせるのです」
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今回のディスクはスクリャービンの初期、中期、後期と幅広い時代を扱っており、様々なスクリャービンの要素を見せてくれるが、やはりそれは意識したのだろうか。
「彼の人生を追うように作品を並べた、ということでは全くないのですが、やはり彼の音楽の変遷は皆様にぜひお聞きいただきたいと思い、注意深く選曲は行いました。スクリャービンほどスタイルを大きく、またドラマティックに転換させていたった作曲家はいないと思います。初期は技術的にも音楽的にもショパンやリストのようなロマンティックな作風でしたが、どんどん彼独自の、誰の真似でもない語法に変化し、深まっていきます。それもまた彼の魅力の一つなのです。今回のディスクの最初の方と最後の方を聴き比べて頂ければすぐにお分かりいただけると思いますが、どんどん音の密度が濃厚になっていくんです。その違いは本当に面白いものだと思います」

やはり音楽の内容は「それ自体」から発見すべき

 さらにスクリャービンは哲学や神智学など、音楽外からの影響は大きい。ホロデンコ自身も演奏において今回の演奏において、何か音楽外から影響をうけているのだろうか?
「あえて何か哲学や神智学を学んだとか、それを音楽に反映させようとした...ということはありません。確かにスクリャービン自身は様々なものを音楽に取り入れようとしていましたが、彼の音楽にあるつかみどころのなさを理解する上で、言葉を尽くして理解しようとしすることはあまり意味を成しません。彼の音楽そのものから感じること以上に音楽を理解することは無理なのです。そもそも私は言葉で音楽を説明することはあまり役に立たないと思っています。一ついい例として挙げられるのは、マーラーが交響曲第3番を書いたとき、もともとは各楽章に標題をつけていましたが、出版時には削除していることです。やはり音楽というものはそれ自体から内容や表現しているものを発見すべきで、絶えず自分で探求していかなくてはなりません」
 ホロデンコの演奏における構築性、圧倒的な説得力を作り出しているものの一端を垣間見るような発言だ。彼はひたすらに楽譜に向き合うことを大切にしている。
「私自身は演奏する時、まず楽譜を読み、作品を理解することに努めます。すべてはそこから始まらなければなりません。それを読み解いた上で、個人的に感じることや、自分の人生の経験、文学や芸術の知識を総動員させて、"解釈"というものを作り出していくのです」

大きな意味と価値を持つファツィオリF308の存在

 今回のディスクではファツィオリのF308が使用されている。これはホロデンコが愛奏するピアノで、6月26日に行った浜離宮朝日ホールリサイタルでも使用している。この楽器の音色もディスクを作る上での大きなモティヴェーションとなっているようだ。
「スクリャービンのディスクを作ることになってすぐに思い立ったのはファツィオリで録音したいということでした。スクリャービンの作品に対して芽生えた新しい感情とファツィオリの音色が合わさって今回のCDが生まれたのです。また、優秀なサウンドエンジニアとの出会いもありました。彼は私のプロコフィエフのディスクでもエンジニアを務めてくれています。素晴らしい耳と音に対する感受性を持ち合わせた人です」
 そもそもファツィオリとの出会い、愛奏するようになったのはなぜだったのだろうか?
「最初にこの楽器に触れたのは9歳か10歳のときでした。スイスでマスタークラスを受けた時ですね。そのあとも色々なところで弾いてきましたが、ファツィオリジャパンの代表取締役のアレック・ワイルとの出会いでさらにこの楽器との親交が深まりました。イタリアのサチーレにある工場で創業者のパオロ・ファツィオリにも出会い、彼の楽器作りにたいするこだわりに感銘を受けたことを覚えています。どんどんこの楽器の魅力に取りつかれていきました」
 これからもファツィオリを弾いて録音していく予定はあるのだろうか。
「具体的なことはまだお知らせできないのですが、ファツィオリを用いて録音する計画はあります。ぜひご期待頂ければと思います。ところで、この楽器について強調したいことがあるのです。ファツィオリのピアノの中でもF308というモデルが特に素晴らしいのです。このモデルで録音するということが、私にとってはものすごく重要な意味を持っています」

聴きなれた作品からも、「新しい発見」を

 スクリャービンの作品は音が非常に多く、複雑に絡み合っている。それが技巧的な難しさをもたらしているのと同時に、聴き手にも複雑な印象を与える。しかしホロデンコの演奏を聴くと複雑さが感じられず、絡み合っている美しい旋律や微細に変化していく和声といったものがクリアに聞こえてくる。これにはやはりファツィオリがもたらすものも大きいのだろうか。
「そうですね。最初に録音しようとした時からこの楽器の音色のイメージが浮かんでいました。なぜならファツィオリは音のバラエティが非常に多彩なのです。いろいろな声部を非常にはっきりと浮き立たせることができる楽器です。たとえばスクリャービンのソナタ第5番の最後の和音などは、非常にパワフルで濁って聞こえがちです。しかしファツィオリで演奏すると、それがハッキリとした美しいハーモニーだと感じることができるのです」
 ファツィオリのもたらしたものは大変に大きいようだが、やはり核としてあるのはホロデンコのピアニズムであろう。彼の演奏は楽曲に散りばめられた無数の音のひとつひとつの響き、それらが形作る音型がクリアに聞こえ、スクリャービンはこういう音楽だったのかという発見の連続であった。
「ありがとうございます。たとえば、ニコライ・ルガンスキーがラフマニノフのプレリュードを全曲録音しましたよね。その演奏が非常にすばらしいものであったことはもちろんですが、たくさんの新しい発見があったのです。この作品は多くのピアニストが取り上げて非常に聞きなれた作品であるにも関わらずです。これで聴きなれた音楽からも新しいことを聴き取ることは可能なのだということに改めて気が付きました。また、最近亡くなったイーゴリ・ジューコフさんも素晴らしいスクリャービンの録音を残しています。それから受けた影響もとても大きなものでした。彼の録音はあまり知られていないのですが、ぜひたくさんの方に聴いて頂きたいですね。そしてスクリャービンの音楽がたくさんの方に知られてほしいです。もちろん私のディスクからもたくさんの発見をしていただけることを願っていますが(笑)」

日本の聴衆の素晴らしさ
そしてこれから
 仙台国際音楽コンクールで優勝、ということをはじめ、来日公演も多いホロデンコは日本と深い関係にあるアーティストだと言えるだろう。せっかくなので、日本にはどんな印象があるか伺ってみた。
「2007年に初めて日本に来たのですが、そのときから私は友達に言い続けています。『日本はすべての国の中でも最高の国だよ!』と。本当ですよ。何回来てもその気持ちは変わりません」
 日本を愛してくれるのはとても嬉しいことだ。それではホールや聴衆に対する印象はどうだろう?
「日本のホールの音響は世界的にも最高のレヴェルだと思っています。そして何よりも聴衆のみなさんの素晴らしさです。例えばある曲を演奏している時、それが静かな終わりだと、やはり静寂を大切にしたいと思うのですが、日本の聴衆の皆さんはそれを敏感に察知してくださって、一緒に空間を創り出してくれるのです。それは本当にすばらしいことです。2010年に仙台国際音楽コンクールで優勝してからは来日するたびに来るたびに新しい聴衆のみなさんやオーケストラ、ホールとの出会いがあります。それらすべてが自分にとって非常に幸せで大切なことだと思っています」
「ファツィオリ」という強い味方を武器に、音楽に真っ向から向き合って作り上げられたホロデンコの新譜は、スクリャービンの作品からさまざまな美しさと魅力を引き出し、聞き手に新たな発見と感動を呼び起こしてくれるものとなっている。今後も彼はファツィオリを用いて様々な作曲家の作品に取り組み、我々に新たな感動と発見をもたらしてくれることであろう。
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